つらいことが起きるとき、なぜかいつも、同じところに出る。
身体なら、自分の弱い部分に。心なら、いちばん触れられたくない傷に。
「どうしてまた、そこなの」と泣きたくなる場所ばかりが痛む——そんな経験はありませんか。
つらさは、向き合いどきの合図
お店でお話をうかがっていると、つらさの出方にはふたつのパターンがあるように感じます。
すでに向き合ってきたことなら、また顔を出しても「ああ、これね」と受け流せます。これまでの宿題のおまけのようなもので、さほど深くは響きません。
一方で、ずっと見ないようにしてきたことは、いちばんこたえる形で現れます。
薄々気づいていた「もうそこに向き合うとき」という合図が、つらさの姿を借りてやってくるのです。
あなたが弱いから痛むのではありません。そこが、あなたの次の入り口だから痛むのです。
「誰かのせい」を、やめてみる
向き合うときの最初のヒントは、他責(たせき)をやめてみることです。
他責とは、家族のせい、会社のせい、環境のせい——つらさの原因を自分の外に置く心の癖のこと。
責める先があるあいだは少し楽ですが、原因が外にある限り、解決の鍵も外にあることになってしまいます。
自責とは、自分を責めることではありません。
人生のハンドルを、自分の手に戻すことです。「ここからどうするかは、わたしが決められる」と思えた瞬間、景色はすこし変わります。
「わたしがいなければ」も、手放していい
もうひとつ、意外なヒントがあります。「かわいそうだから」「わたしがいなければ」というフォローを、すこし緩めてみることです。
先回りして支え続けると、相手は自分の足で立つ機会を失います。
子も、親も、友人も、同僚も、本来は自分で立てる人たち。手を引っ込める優しさもあるのだと、店先のたくさんのご相談から教わりました。
進む方向は、自分で決めていい
「できる」と思って踏み出す一歩と、「どうせ無理」とうつむいたままの一歩では、同じ一歩でも届く場所が違います。
疑いながら歩くと、足は自然と止まってしまうもの。
だからまず、自分はこっちへ行くと決めること。決めた人の足取りは、不思議なほど軽くなります。
そして、これからの道は、ひとりで叶えなくていいのです。
誰と一緒に歩くか、どんな仲間と作り上げるか。それを選ぶことも、自分の足で立つことの一部です。
痛むところから、はじまる
いちばん弱いところに出たつらさは、あなたを倒すためではなく、次の扉の場所を教えるために来ています。
他責の荷物をひとつ降ろして、ハンドルを自分の手に戻す。
そこから先の道は、ひとつではありません。何本でも、誰とでも、引き直していけます。