大切なペットを見送ったことのある方は、あの悲しみをどこへ向ければいいのか、途方に暮れた経験があるかもしれません。

今日は、わが家の愛犬・サブを見送ったときのお話をさせてください。少し重いテーマですが、命を大切にすることに、まっすぐつながるお話です。

最期の時間、片時も離れずに

サブの病気がわかってから、私は片時も離れず、そばにいました。

耳が遠くなったサブに、痛くないように、怖くないようにと、たくさん声を掛けながら。

動物は、私たち人間よりも先に、死を自然なものとして受け入れているように見えました。生きることと同じ顔をして、静かに最期へ向かっていく。その姿に、教えられることばかりでした。

向き合えない悲しみも、ある

一方で夫は、病気になったサブと向き合うことができませんでした。

あとになって本人の口からそれを聞いたとき、責める気持ちは起きませんでした。死ぬことが怖いということは、生きることも怖いということ。夫の弱さではなく、本当の気持ちに、初めて触れた気がしたからです。

亡くなる怖さとの向き合い方は、人それぞれです。その人にしかわからない、過去に負った傷とつながっていることも多く、誰かが代わってあげることはできません。

「うちの子として、生まれておいで」

サブが旅立つ前、耳元でどうしても伝えたかった言葉があります。

「うちの子として、生まれておいで」

当時、私たち夫婦は新しい命を待ち望んでいました。本当のところは、誰にもわかりません。それでも、そう願って声を掛けることで、私自身の悲しみに、小さな灯がともった気がしました。

サブの死から目をそらさず、二人で見つめ、見守り、見送ったこと。その時間が、新しい命を迎える親としての夫の心も、少しずつ変えていったように思います。

悲しむことは、命を大切にすること

「こんなに悲しむなら、飼わなきゃ良かった」——そう言わずにいられないほどの悲しみは、それだけ深く、命を大切に思っていた証です。

死を悲しむことと、命を大切にすることは、対になっています。だから、ペットを見送った悲しみを、無理に消そうとしなくていいのです。

悲しみ尽くした先で、ふと顔を上げられる日が来ます。見送った命から受け取ったものを抱えて、私たちは、続いていく自分の日々をまた生きていけます。命のバトンは、そうやってつながっていくのだと思います。