大切な人を見送った経験は、ありますか。

悲しみと同時に、「自分は何のために生まれてきたんだろう」という問いが、ふいに立ち上がってくることがあります。
今日は、わたしが叔母を見送った日に考えた、命のお話をさせてください。

叔母が旅立った日

乳がんで闘病していた叔母が、亡くなりました。
父からの知らせを受け取ったのは、仕事を終えて自宅に戻った夜のことです。

その日は、叔母の父——わたしの祖父の命日でした。

偶然かもしれません。それでも、「おじいちゃんが迎えに来てくれたのかもしれないね」と、自然にそう思えました。寂しくないように。迷わないように。

ちょうどお腹に赤ちゃんを授かり、命について考える日々の中での知らせでした。

「死ぬほうが楽。だけど、生きる道を選ぶ」

闘病中の方が、以前こんな言葉を話してくださったことがあります。

「死ぬ方が楽だからね。生きるのって大変だもの。だけど、私は大変な生きる道を選ぶんだ」

深くて、刺さる言葉でした。

生きることは、楽だから選ぶものではないのですね。大変だと知ったうえで、それでも自分で選び取るもの。その覚悟の静かさに、何度も支えられています。

生きることは、自分のもの

誰かが何を言おうと、何をしようと、人は自分が良いと思う道でしか生きられません。

周りがとやかく言えるものではなく、その人が自分で背負い、自分で歩いていくもの。

身近な人にできることは、本当に僅かです。代わりに生きてあげることも、苦しみをそっくり引き受けてあげることもできない。
その力不足を感じながら、それでも、そばでできることを探し続ける。見守る側にできるのは、それだけなのだと思います。

生まれてきた意味を、考えてみる

なぜ自分が生まれてきたのか。

すぐに答えの出る問いではありません。でも、悩みや苦しみの多くは、たどっていくとこの問いにつながっている気がします。

自分なりの答えの輪郭がうっすら見えてくると、不安や不満との付き合い方が変わります。「この命を、どう使いたいか」という軸——自分軸が、心の真ん中に立つからです。

まとめ——大変な道を、自分の足で

生きることは、大変です。

それでも、道はひとつではありません。命がここにある限り、立ち止まることも、選び直すことも、また歩き出すことも、何度だってできます。

あなたがあなたの道を、あなた自身の足で選べますように。